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ようこそ波動門へ

波動門体術とは
我が内なる宇宙に三気を付加する術である
     三気とは 覇気・勇気・鋭気 なり

"波動門体術"は、日本伝承の柔術、拳法などの技法に、ボクシングの技術を加味して体系化された護身格闘法です。

■設 立:1987年(昭和62年)  
■波動門体術
 代表師範:関 哲男 先生(静岡県浜松市)
立命館大学日本拳法部(師範・乾龍峯九段)OB
日本拳法中部本部洪志館(館長・山田洪志十段)OB(助師範)
  1980年 日本拳法研修会(札幌市)設立代表・南郷ジム師範
  1987年 波動門体術と改称代表師範
 
波動門創始者・代表師範 関先生の設立一周年当時の一文掲載し、
その設立趣旨を端的にご紹介します。

波動門体術一周年

 菊花かおる季節となりました。皆様ご健勝のことと存じ上げます。
 拳法の道を離れ、同門の仲間と共に新たなる夢を追い、『波動門体術』を創始して一年が経過しました。二年目に入った我が体術の最初のイベントは、札幌波動門の第3回昇段級審査会です。
 古流柔術より発祥した「日本拳法」が『波動門体術』の母であり、恩師・山田洪志十段を波動門の流祖と仰いでおります。組打ち技重視・KOルールの実戦闘技として古流柔術本来の姿に回帰することを目指します。
 小生、今年は武道修行30周年にあたり、気持ちも新たに同門の仲間と共に『体術』の道を楽しみ、精進いたします。
 今後のご教導をお願い申し上げ、皆様のご健康をお祈り致します。

1988年・秋
日本伝体術道・波動門
師範・関 テツオ

波動門体術の大要
波動門体術は
自己防衛と倒敵を目的とするフリースタイルの格闘術である
その技法構成は
徒手空拳による突き、打ち、蹴りなどからなる「拳技体術」
組み合っての投げ、倒し、関節逆捕り、絞めなどからなる「柔法体術」に大別され、全身体の合理的かつ総合的な操法によって攻防の技法が展開される
乱捕り稽古(フリースパーリング)は
実戦格闘を想定して行う一対一の自由格闘練習である
拳技、柔法が一連不可分に合一された攻防技法として操法され
対手(たいしゅ・対戦相手)を倒し「極め」を入れて勝ちを取ることを目標とする
極め(きめ)とは
対手に「止め」(とどめ)を刺すことである
打ち技または投げ技によって
対手の格闘継続能力を一時的に不能とする(ノックアウト)などの他
対手を倒しての踏み込み蹴りその他の打ち技による「極め」
立ち技または寝技での関節逆捕り技、絞め技などによる「極め」がある
波動門体術は
一対一の格闘練習を通じて対人殺傷技術を磨く武術である
良識と礼節をわきまえない蛮人が行えばただの暴力であり乱闘である
したがって波動門体術を修練する者には「紳士」たることが強く求められる
殺伐たる殺傷技術を磨く修練を通じて
対手の人格を尊び
礼をもって対し 勇をもって機に臨む
もって我が内なる宇宙(肉体、精神、こころ)に三つの気、すなわち覇気・勇気・鋭気を涵養(かんよう)する「道」たらんことを期するものである

波動門のルーツ

ご指導頂いた諸先生
山田 洪志 先生 (ご紹介) / 乾 龍峯 先生 (ご紹介) / 森 良之祐 先生 (ご紹介) 
左から 森良之祐 澤山宗海 乾龍峯 矢野文雄 の各先生
(昭和26年頃)
山田洪志先生
(昭和54年・名古屋タイムズより)
山田 洪志 先生
『四十年のゲンコツ人生 日本拳法九段 山田洪志さん(六一)』
毎日新聞・「東海人間模様」vol.280 昭和46(1971)年5月13日


『残心』 為関 哲男兄
山田洪志書 1978(昭和53)年

  ・ ・ (略) ・ ・ 「私のこれまでの人生は、まったく拳法一筋で暮れてきました。でも、こんな人間がいてこそ、歴史がつくられるのではないでしょうか。」 自信に満ちあふれた人生観が、おだやかな口調からとび出す。折り目正しく、節度のある態度。全身からスポーツマンの威風がにじみ出る人だ。 青年時代の山田さんには、今日、伝説化して語り継がれている逸話がいくつもある。 空手が沖縄からもたらされてまもないころから、ずっと歩みをともにしてきた数少ない先達者の一人。 空手との出会いは、関西大学に入学した昭和4年。当時、全国でもまだ慶応大学と松坂屋東京支店の二ヶ所が空手をはじめたばかりのころだった。
関大予科で山田さんは先輩の澤山宗海氏(日本拳法宗家・関大講師)とめぐりあう。「関西でも、沖縄の当て身をやろうではないか。」そのころすでに柔道四段だった澤山氏と山田さんは、このとき以来、長く結ばれることになる。 ・ ・ (略) ・ ・  三角とびが神秘的に喧伝されたのもこのころ。試合をすれば必ず怪我人が出る。そこでやむなく型をみて段が与えられた時代だった。ともかく鍛えよ、みんながそれをあこがれた。予科、大学を通じて、山田さんは、空手の道にひたりきった。
 千里山の下宿。ちょうちんをともして毎晩、澤山氏、友人の三人で神社に出かけ、猛練習をする。「風呂の焚き木は、オノなど使わず練習と称しては手刀で割ったものでした」
「関大の山田」の名がとどろく。伝説化した逸話は、みな当時の‘空手の達人’山田さんに付随している。
 昭和7年、沖縄の東恩納氏の流れをくむ達人、宮城長順氏が本土にやってきた。本場の空手をたずさえてきた宮城氏は東京からの帰途、関西に立ち寄って、山田さんの下宿で一週間過ごし、本土ではだれにも教えなかった「クールンハー」の型を山田さんに伝えて帰った。
 空手はスポーツとして、あまりにも危険が多過ぎた。型だけでなく、試合も安全にできないものか・・。山田さんは澤山氏を中心に安全な「防具」を作ることに力をそそぐ。同時に、喧伝されていた「神秘的な空手の威力」を忌み嫌った。
「空手とは決して科学を超越したものではない。すべてのワザが科学的・物理的に説明できるはずだ。健康や衛生を無視した過去の武道ではなく、時代に合ったスポーツとして広めよう」。 澤山氏や山田さんの情熱が、今日の「日本拳法」を生み出したのだった。
・ ・ (略) ・ ・ 金もうけとはまったく無縁である。主な相手が学生であるため、むしろ豊かでない私財を投げ打ってきたというべきだろう。山田さんが、かつて町内に一人か二人しかいない大学卒の法学士になったとき「大学を出てケンカの先生になった・・」となげいた父親の死にも、期待を裏切った息子は駆けつけることができなかった。 ・ ・ (略) ・ ・
乾 龍峯 先生
『乾 龍峯先生の思い出』関 哲男 (波動門 代表師範)
「立命館大学日本拳法部 五十周年記念誌」への寄稿(抜粋)平成17(2005)年
 ・・(略)・・ 私が入学、入部した当時の拳法部道場は、部室の外には拳座(巻き藁)、道場内には指頭拳(指先)を鍛えるための砂箱があり武術色の強い環境が残っていました。   師範は拳法九段・乾龍峯先生、日本拳法のメッカ吹田にあって昇竜館道場の館長、そして社会人連盟会長、日本拳法会の重鎮として永く宗家、会長と道を共にした大先達でした。  先生はまた、当時の立命館総長・細野武男先生とも面識を持っておられたようです。  私たちはその乾龍峯先生から直にご指導を頂く幸運を授かったラッキーボーイでした。 長身の背筋をピンと伸ばし、髭を蓄えた先生の風貌はなるほど昭和の武人そのものでした。 しかし指導に際して私たちは一度も先生から叱られたことはありません。それどころか、少しでも良いところを見つけては褒めてくださいました。 その時の先生の飾らない笑顔が印象に残っています。 その時分の我が拳法部の稽古は、数百本から千本の打ち込みの後に防具着装しての乱稽古。拳法部はこの乱稽古こそが練習の中心であり、修行の目標もこの容赦のない熾烈な防具練習の中に存在していました。受け手技ではなく体躱し(たいかわし)で相手の打ち技をかいくぐり打ち勝つことを重視し、相打ちを恐れず前に出る稽古を心掛けました。 ・ ・ (略) ・ ・乾龍峯師範が『摶撃の型』を構成する技法を含む「攻防の打ち込み」を指導されたとき、私たちは新鮮な印象をもって師範の演武を見ました。受け手技と体捌きで対手の打ち技を殺しての反撃。先生が見せる流れるような打ち込み演武に、「ド突き合い」だけではない日本拳法の奥深さを垣間見た思いでした。『舞い』の流麗さを見たのです。ご指導の後の食事の折、同席させていただく私たちと気さくにお話をして下さり、笑顔で拳法談義をされました。その穏やかな雰囲気は拳法の達人もさながらひとりの好々爺でした。 体調を悪くされた先生を大阪の病院にお見舞いした時、あの気さくで実に大らかな笑顔で先生は私たちを迎えてくださいました。 ・ ・ (略) ・ ・あの日お目にかかったのが、武人・乾龍峯先生とのお別れとなりました。 森良之祐最高師範とお話した折、森先生が乾龍峯先生をたいへん敬愛されていることをうかがいました。ここに森良之祐先生の一文があるので抜粋して紹介します。『・・・澤山先生(宗家)は大酒豪で、食事には気を遣ったが住まいには屈託なかった。庭の草が茂るのを見かねて時折、乾龍峯先生が手入れに来る。 乾先生は吹田市の昇竜館館長。明治37年辰年生まれで美髯(びぜん)。日本拳法の信徒総代のような方。 乾先生は奥様と二人で私を歓待してくれた。 ・ ・ (略) ・ ・愛弟子の孫田(誠一)氏との防具練習は、逆捕りを狙ってくるから油断できない。 ・ ・ (略) ・ ・練習後は拳談に花が咲き、一泊して辞去するのが常であった。 ・ ・ (略) ・ ・』乾先生の人となりがうかがえます。私は卒業後、名古屋の山田洪志先生(中部本部長・十段)の道場(中部本部洪志館)にお世話になりましたが、洪志先生も拳法草創期よりの同志、乾龍峯先生を懐かしそうに話しておられました。 ・ ・ (略) ・ ・
森 良之祐 先生
『日本拳法とともに生きる』 2000(平成12)年刊より抜粋
森 良之祐 日本拳法最高師範 著 (私家版)
月刊『フルコンタクトカラテ』誌の連載に加筆刊行

「日本拳法」は、昭和7年9月15日、澤山勝先生が大阪の洪火会(黒山高麿会長)本部道場で武道として創始されました。 私は、戦争が激化していた昭和18年に関西大学に入学。拳法部に入部しましたが、澤山先生は出征されており、昭和21年に先生が復員されてからご指導を受けるようになりました。そして翌22年7月、郷里徳島に道場を開設。新聞社を辞めて指導に専念していたのが見込まれて、昭和28年、拳法会から日本拳法普及のため東京へ派遣されました。
 このとき澤山先生は宗家になられて宗海と号し、私は允許権を頂いて「日本拳法協会」を創立しました。これが波乱を起こしました。協会の誕生を快く思わない人たちが分派行動とみなし、当初は吸収合併の話を持ち掛け、その後は勢力争いの様相となったのです。澤山先生は後継者の指名をされないまま、昭和52年9月27日に亡くなられました。・ ・ (略) ・ ・
 長年のボタンの掛け違いを正そうと、昭和59年1月20日、矢野文雄日本拳法会会長の謝罪もあって、日本拳法会と協会とが連合体制をとることになりましたが、その反動か、日本拳法会は昭和63年、協会から分派した勢力を傘下に加えました。・・(略)・・分裂策を行う人たちの心情は、トマトやスイカの種を蒔き収穫を誇るようなものです。これに対して杉、桧の苗を育てる人には、数十年先の子孫のために木を植える心があり、人間本来の面目があると思います。・ ・ (略) ・ ・
 日本拳法が生まれ育った道場「洪火会」は、時代に大きな火をかかげるという理想のもと命名された、武道と修養の団体でした。創始者の黒山高麿先生は、福岡県に生まれ、武道専門学校4期生、大阪府警察本部柔道師範を務めた。戦後は、福岡県芦屋町長(3期)。柔道8段、昭和52年11月27日没。享年82歳でした。洪火会は大正末年に創設、本格的な活動期間は、本部会館が大阪市天王寺区東高津に建設された昭和7年から、大阪空襲によって会館が焼失した昭和20年まででした。会活動の主軸は柔道部であった。昭和12年の会員名簿によると正会員235名(教士六段9名、六段1名、教士五段19名、五段41名、四段52名等々)。洪火会は澤山勝師範の拳法部のほかに、一般青少年も参加する敬天塾を設けた。私は昭和19年入門。黒山先生の武道家としての端正な生活、己には厳、人には寛という高潔な人格にふれ、すっかり敬服してしまった。・ ・ (略) ・ ・
札幌では関哲男氏とホテルの一室で初めて面談しました。(昭和57年7月1日)  関さんは立命館大学在学中、乾龍峯師範門下となり、教師(名古屋市)となってからは山田洪志先生の組織に入り、昭和56年に帰郷後、札幌支部を設立した強者で、五段位保持者でした。
関さんは挨拶もそこそこに、私が武道誌に寄稿した記事内容について質問させてくだい、と切り出した。 私は『指導に形を創るなど研究を加えたから、大阪の拳法とはすこし変わってきたと思う。澤山先生から指導を頂けなくなってからは、一任状を活用して、技術と精神面との一貫性に心を尽くした。東京に出たことによって日本拳法は全国に普及した。澤山先生の期待に応えたと自負している。しかし、警察逮捕術の競技化に日本拳法が注目されたことにより、私と澤山先生との関係が思わぬ展開となった。これでは相競い切磋琢磨するという協会の創立精神は生かされない。対立し空転している現状は残念だ。・ ・ (略) ・ ・ 交流は途切れているが、ここにきては、時が解決してくれるほかないと思っている』というような話をした。この後、第11師団・真駒内駐屯地での会合に同行し、終日行動を共にして別れた。
 帰郷後まもなく、その関さんから速達便が届いた。「昨日、日本拳法会から会報『日本拳法』9月12日号が配布された。この中に森先生に関する社会人連盟友田忠会長の一文が掲載されている」とあり、同封されていた紙面に目を通すと、私を一方的に誹謗して黙過できないので、早速、発行人矢野文雄・ ・ (略) ・ ・ 筆者友田忠の各氏に対して、後藤田正晴会長、森良之祐最高師範連署の5頁に及ぶ抗議文を出した。 これに対して、矢野文雄会長より謝罪文が届き、10月16日には小西丕・ ・ (略) ・ ・ の三氏が特使として謝罪のため上京した。翌年秋には友田さんが船橋市の拙宅に来られ・ ・ (略) ・ ・ 「会長補佐を辞めるからこらえてくれ」と謝罪。私は、また仲良く語り合える日があるでしょうと慰留した。・ ・ (略) ・ ・

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